ニートが1年ぶりにいきなり働いた感想です。
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およそ1年ぶりに一日8時間”も”働いた。きつい。
きつ過ぎるとまでは言わないにしても、家に帰り夕飯を食べたら3時間は布団の上で気絶している。
この前は5時間も気絶していた。身体的疲労よりも精神的な疲労が勝っている状態だ。
入職したてなのでもちろん仕事のルールややり方、一連の流れや、裏技、トラップ(常識では考えられないその職場ならではのルール的なやつ)などなど分からないことだらけで、適宜きったなく、うっすい筆跡でメモを取る。もちろん家に帰って見返すと自分の字が読めず、私の頭の中のVHSを巻き戻し記憶を反芻することになる。その作業もまた地味に時間を喰うので結局2度手間なのだが、記憶を定着させる、あのよく言われるエビデンスなんとやら忘却曲線(多分間違っているがこれを書いている今、ググる気力はない)を思い出し、意味があるだと脳をだまし自分を欺くことで納得させている。
今まで子供部屋に引きこもり会話するのは医者ぐらいのものだったので、コミュニケーションもどこかぎこちない。自分の言葉に自信がないのだ(これは生まれつきかもしれないが)
ゆえに返答はいつも自信なさげな断定を避けた答えになってしまう。最近では自分の下の名前さえ断言できないほどものごとの正誤に自信がない。
コミュニケーションのコツとしてとりあえず相手がボケるか(面白いか否か、そもそもボケているのか否かの判断は経験に依存する)もしくは笑ったら、同じく笑顔を返すというのを昔から実践している。とりあえず笑っておけばいいというたぶん科学的にも倫理的にも誤っていそうな持論を日夜試行し、愛想笑いはうまくなっていたような気がするが、やはり1年ぶりのニートのせいで愛想笑いもサビていた。うまく笑えないし、非常に疲れるのである。受動的に笑うのと能動的に笑うのはやはり使っている脳が違うのだろうか?
職場は年上ばかりで女性が多い、そして女性はよく喋る。何とか話を合わせて、ときおり合いの手や質問を投げかけ、笑顔を浮かべ、共感する。これもまた疲れる。おばちゃんはよく喋る。喋らないおばちゃんとの沈黙もなかなかきつい。昭和64年並みの短い正社員時代で身についてしまったであろう接待心が沈黙を打破せよと指令を出してくる。もちろんそれを無視する。
結局コミュニケーションは難しい。大学ではコミュニケーション学を学んでいたんだけどな。本当に学士なのか?私は。
さて今は1日8時間の週3回シフトのパートだが、やっぱり1日5時間ぐらいがベストという考えを強固にしている昨今である。なぜ人間1日8時間も働けようか(反語)
それも週5日が最高ではなく最低の労働基準という価値観の蔓延には辟易する。(辟易の使い方合ってますかね?)
なので職場のボスにシフトを入職したその日に週3から週4に増やされそうになった時は右手に盾を左手に嫌悪といった具合で週3シフトを何とか死守した。ニートがいきなり週32時間も働いたらおかしなるって。
そもそも、もう昼食を食べた後は人間やる気などないのである。なので私は昼食を放棄したいぐらいまである。昼食を食べて休憩を取ってもなお、あと4時間半ものこってやがると軽く絶望感を感じながら休憩が終わるのである。
そして残り1時間半ぐらいの時間が一番きついと感じる性なのだが、最近では「あと1時間半もある…」ではなく「残念だったな、もうあと貴様には1時間半しか残ってないぞ、まあせいぜい俺を苦しめられるよう頑張るんだな」と勤労時間という概念に対してケンカを売ることによってこれまた脳を騙し自分を欺くことで労働という無間地獄を耐え抜く。
まとめ
労働において反骨心は絶対に失ってはいけないものである。
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