推しは1人に絞らなくちゃダメなのだろうか?

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ストリップ

私は最近、推しが加速度的に増えている。それはストリップ劇場のおかげだ。

私はその昔、「推し」などという言葉に拒絶反応を示していた。いけ好かない言葉だと思った。友人が推しにうつつを抜かし過ぎているのを近くで見ていて、推し活なんてものは中毒の一種、スマホ依存症などという現代の病の一種ぐらいに思っていた。だがストリップに出会ったおかげで、たくさんの踊り子さんにお会いしたおかげで、私も「推し」という言葉を平気で使い、スト活ならぬ推し活に邁進しているのである。

好きなものが増えるということはいいことではあるが同時に葛藤も出てきた。それは「推しはひとりに絞るべきかどうか問題」である。毎回ストリップ劇場へ行き、その日の香盤で新たに最低1人は推しができてしまう。困ったものだ。贅沢な悩みである。推しが増えれば増えるほどポラやチップ、グッズの費用が増えていく。そのため推しを一人に絞った方がもっと推しを推すことができるのかもしれないと思うのだが、好きなものは好きである。ひとりには絞れない。

推しという響きにはどこか「最も」「一番」、英語で言うとbestなニュアンスを勝手に感じる。それゆえ「推しはひとりに絞らなくてはならない、沢山推しがいるのはおかしい」という思想も世の中にはあるのではないのかと思う。だがしかし、ストリップファンの皆様には分かって頂けると思うが、推しを一人に絞ることなどやはり容易ではないのだ。みんなちがってみんな良いのである。

「それってただのにわかじゃない?」と言われれば私は烈火のごとく怒りだすだろう。にわかではないからな。いやにわかなのか?複数の推しがいることは。あれれ?わかんなくなっちゃったかもにゃだ!

踊り子さんの立場からすれば、私だけを応援して欲しいと思うのだろうか?よく踊り子さんに「どのお姐さんの応援さんですか?」みたいなことを聞かれるのだが、基本的に香盤の全員、というかもともとストリップ劇場という空間が好きで来ているので返答に困ってしまう。いつもは「この劇場が好きなんです」とはぐらかしてしまう。やはり自信をもって推しの名前を出すべきだろうか?その踊り子さん以外の名前を出してガッカリされるのもどこか忍びないので難しいところだ。

日本社会では恋人・人生の伴侶という名の推しはひとりに絞らなくてはいけない。それはただの浮気になってしまうから。だが推し活の推しぐらい何人いたっていいじゃないか

ここで一句

推し活や 何人いても いいじゃない 人間だもの 俺はケダモノ(ストリップ短歌)

なにごともたやすく一番を決められない性格の私はやはり博愛主義者、というかただの浮気性なのかもしれない…

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