先日、無駄をなくそう!みたいな内容の本を読みまして少し考えさせられました。それは我々は人生・寿命を売ってお金を得ているということです。
時は金なりという言葉がありますが逆にまた金は時なりとも言えるのではないかと考えます。
つまり本来失われるはずであった時間を現代のテクノロジーや金の力を使って買ってしまおうという話です。
みなさん、お金を得て喜んでいる場合ではありません。たいていのお金稼ぎ(不労所得を除く)というのは自分の人生の残り時間を通貨というものに変換しているだけなのです。なので沢山働いてお金を増やして意気揚々としているその実、人生のカウンターを着実に減らしているという事実にその本を読んで気づきました。
私は長い間無職でしたので時間だけはあり余っていました。なのでコスパが悪かろうが時間をかけてでも節約や雀の涙のおこづかい稼ぎに走っていました。電車を一駅あるいは二駅前で降りて歩いたり、電車移動を自転車にしたり、ポイントサイトやアンケートサイトでちまちまポイントを稼いだりなど。
時間が有り余っていたのでそれはそれでいいのかもしれません。ただ、今考えると若い貴重な時間をそんなコスパ最悪な行為に使っているのが凄くもったいない・馬鹿らしいと思い始めました。だって人生のカウンターを早めているのと一緒ですから。
昔『タイム』という自分の寿命=通貨としての世界が描かれた映画がありましたが、もしその世界が現実なら絶対に上記のようなコスパ最悪な行為はしなかったと思います。いや、バカだからしてたのかなぁ。
なので無駄な節約、例えば自分の時間を売りにして節約する行為は自分の労働価値などに照らし合わせてよく吟味しなければなりません。例えば1000円のランチと300円の弁当があり、栄養価やカロリーに大した差がないのなら300円のランチを選ぶというのは理にかなった節約だと思います。それが精神上幸福なのかはまた別ですが…
しかし、例えば同じ距離を移動するとして2500円の高速バスで6時間かけて行くか、5000円の新幹線で2時間で行くかを考えたときに果たして高速バスで行くことが必ずしもベストな節約なのかと思うのです。もしその人の労働価値が高い、あるいは資産が十分にあるならば、絶対に新幹線で移動すべきなのです。ただ私は高速バス移動の遠足の様なわくわく感がすきですけども(笑)
そもそも労働という行為も単に寿命を切り売りして稼いでいるだけです。そこにあるのは労働当たりの単価が高いか低いか。私の職場では待機の時間がそれなりにあります。何もしなくても時給が発生しているといえば聞こえはいいですが、裏を返せば何もできないで寿命を消費している(時給は発生していますが)というもったいなさを感じざるを得ないのです。
私が何を伝えたいのかというと、この資本主義社会ではお金を稼ぐ・生み出すという行為の代償は自分の寿命・人生ということなのです。
それでもお金を稼がないという選択肢はなかなか取れないでしょう。なのでお金を使って時間を生み出しましょう!
この前呼んだ書籍では、お掃除ロボットを買ったり、乾燥機を買ったり、永久脱毛をしたりなど、一度高いお金を払ってしまえばその後は半永久的に自動化・効率化・作業自体の除去をして時間を節約できるということです。
「結局お金を使って時間を買っても、そのお金自体が時間を売ってんだから、余計に金がかかってるじゃねえか!」という感のいいガキに何か言われたらこう言いましょう
不労所得こそ最強
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